メイン ◆色もなき心を人にそめしより 弐



かさり、とその細い指の間から紙の音がした。
彰子は、もう一ヶ月以上も前に書かれたものだという文を何通も、今朝、晴明から受け取っていたのだ。
父の目を通ったものだという、それは十通以上にもなっていた。

「あ、の…ねえ、天一。今度のお歌は、とっても素敵で、その、私、お返事を書きたいのだけれど」

文に落としていた目をそっと上げて、彰子は目の前の神将を見た。
昌浩からの文を大事そうに胸に抱え、彰子は遠慮がちに天一に言葉を投げかける。
「返事はなりません」と晴明から言われているのは分かっている。
それが正式に結婚をする、手順だという事も。
だが彰子には歌の苦手な昌浩が、これをどんなに苦労して作り出した物かと言うのが痛いほど分かっていた。
だから、その気持ちになにかしら答えたいと思うのだ。

彰子の言葉に振り返った天一は少し困ったようにその柳眉を寄せた。
その気持ちは痛いほど分かっていた。だが天一も、まだまだならぬ、と晴明に命を受けている。
それに、やがてくる晴れの日のための、昌浩の美しくも新しい直衣を、彰子はまだ縫い上げてはいなかった。
昌浩と同じくすこしくやつれた顔に、天一は胸を痛める。
露樹の手伝いをきちんと終えてから、裁縫にとりかかる彰子はここのところマトモに眠っていなかった。

「あの、…結婚の、承諾のお返事ではなくてね、お歌の感想と言うか…そういうものを、せめて」

針の刺し傷だらけの指先が、愛おしそうに昌浩からの文を握り締めている。
遠慮がちな言葉に、天一は答える事が出来ない。
すこし困ったように、彰子の膝にのっていた縫いかけの直衣を手に取ると

「…お手伝いいたします」

とふわりと笑った。



東三条殿には、春の便りが訪れていた。
整えられた庭を見ながら、先導の女房について晴明あゆくりと廊下をわたる。
ちらちらと、磨き上げられている木の板に、彩りをさす花びらに目を細めた。

やがて、一室の前で女房が止まり、晴明は衣服を正してすのこに座し臥す。
几帳が乱暴に取り払われる気配がして、やがてどか、と鷹揚に誰かが座る気配がした。

長い沈黙が落とされる。
(やれやれ)

「道長様」
「…近う」

縁で一礼した晴明を、不機嫌そうにかわほりでくいくいと自身の前に呼びつけると
手にした文に視線を落とした。
晴明は苦笑しながら、低い姿勢のまま道長の下へとにじりよる。
道長は、しばらく見ていた文をひらひらとさせるとはあ、とため息をついた。

「のう、晴明」
「は」
「…そろそろ、意地悪も潮時か?」

道長の視線は、手の中やそこらにちらばる文を見渡すようにゆっくりと巡る。

「娘を送り出すと言うのは、簡単だと思うとったが…。存外難しいのだな」

「父というものは、そういうものと」
「相手の顔を、知っているというのも、・・・なかなか」
「はあ」

世の春を独り占めしているほどの人物の、この言葉に、さしもの晴明も苦笑をかすかにおとした。
ただの父親になっている道長は、ふう、と小さく諦めにも似た息を吐き出す。


「あれの心も、定まっておるのだろう?」
「そのようにお見受けいたします」

「…季節は冬じゃが。…安倍の庭に藤の花を咲かすがよい。」
「は。…身命を賭して賜った花を昌浩は生涯守ると、この晴明、お約束 いたします」

短くもゆっくりと重く吐き出された道長の言葉に、晴明は目元をほころばせながら深く一礼する。
ここにようやく、姫の父君の許しが降りたのだ。
晴明は笑いあう二人を思い、胸の中が暖かくなるのを感じていた。


***********


「お、あれを見るの久しぶりだなあ」

物の怪が空を見上げて、懐かしそうに言葉を発した。
仕事を終えて、ぐったりとした足取りだった昌浩はその言葉と視線に釣られて、ふいと空を見上げた。
その目に映るは夕暮れの空に舞う白い、鳥。

「じい様の、式?」

美しく朱に染まる空に、輝くように映える白い鳥は、昌浩の頭の上をゆっくりと旋回すると
まるでせかすように昌浩の行く先を飛んでいく。

「なんだろ」

何かあったのか、と小さな緊張を抱いた昌浩は物の怪を抱え上げると
足早に家路を急いだ。




「ただいま戻りました」

いつものようにそう声をかけて、昌浩は脱いだ沓をきちんとそろえる。

奥から母の声がしたなと思っていると、晴明と吉昌が揃って昌浩の前に現れた。 驚きに昌浩は目をむく。
面食らったのは、足元にいた白い獣も同じだ。
一体、なんだ?二人揃って登場するとは何か穏やかでない。
昌浩も、物の怪も同じように緊張を纏い、目の前に二人に向き直った。


「只今帰りました」
「うむ」
「お帰り、ご苦労だったな」
「いえ。あの、じい様、…何かあったのでしょうか?先程、じい様の式を見かけましたが」


少し探るように、昌浩が視線を晴明にむけると
祖父は扇で口元を隠し、話があると孫を自室へといざなう。
え?と一瞬惚けた昌浩と物の怪を置いて、祖父と父は穏やかな笑顔を浮かべて歩き出した。

そして空を舞っていた白い鳥は、一通の文になって昌浩の手の中へぱさりと音を立てて収まったのだった。






***僅か前進(笑)。やっと承諾でした。
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