メイン ◆色もなき心を人にそめしより 参



月が高い。
車乃輔に乗り、がたがたと道を行く。
空気は澄んで穏やかな風に桜の花びらが散っている。


昌浩は一人、妖の牛車に揺られていた。

はやる鼓動を抑えようと、何度も深呼吸をするがそれは今だ成功しない。
小窓をあけ、外の空気を取り入れると
昌浩は胸いっぱいに空気を吸い込んで、高い月を見上げた。

今までのわずらわしささえ感じた全ての事は、娘を思う父や、彰子を思う祖父や両親の仕業だったと
晴明や吉昌の言葉から昌浩はやっと気付く事ができていた。
毎日の歌の練習や、文の手習い、推敲。
ただひたすら、やだやだと言っていた自分を思い出して、昌浩は眉を寄せる。
だがそれに気付けなかった自分が情けなくて、どう顔向けしていいのか、という気分にすらなっているのだ。

昌浩は自分の胸元に納まっている、先程の手紙を確かめるように手を添えた。
流れるような美しい文字で書かれたそれには、返歌があった。
今でもその意味は朧にしか分からないが、返事をもらえたという事が昌浩には信じられなかった。
何度も何度も、これは幻か、と触ったり、見返したりしている。
3ヶ月という時間昌浩にとって、まるで永遠だったから、唐突に終わった事が信じられなかったのだ。

(道長様が、俺を、許してくれたんだ…)


彰子の身の上は特殊だ。
普通一般の貴族の姫の結婚のように、「婿取り」をしたり調度をおおっぴらにそろえたりする事は出来ない。
今だって、婿行列も出来ないのだ。
藤原一族と縁を切っている彰子。
だからと言って親が子をを思う気持ちはいつまでもどこにいても変わるものではない。
だからせめて、と出来る限り「一般の結婚」の形式をとるように周りが仕向けていたのだった。


いきなりというのではなく、歌や文を細かに送りあい、ささやかながらも結婚の日を心待つようなそんな日々を。


(それなのに、俺ってば)

ひとつ大きくため息をつく。情けない事、この上ない。



がったん、といつもよりは穏やかに車乃輔は動きを止めた。
ゆっくりと降りると、彰子が縫ってくれたと言う直衣を調え、烏帽子を正す。
ともすれば、震えそうになる足を叱咤しながら、昌浩はそっと邸へと足を踏み入れた。
昌浩の沓を、この邸に来ていた成親がそっと取り上げた。
沓取り親代わりだ。
それを目の端でそっと確認した昌浩は、さらに緊張が高まったのを感じて、ふとあたりを見回した。

藤原の遠縁のものだというこの邸は、近頃空き家になったばかりで、まだまだ美しかった。
初春の柔らかな風に乗って、桜の花びらがはらはらと舞っている。
庭も手入れされていて、そこに道長の親心を感じて昌浩は頭の下がる思いがした。

静まり返った邸の廊下を、月明かりを頼りに、彰子がいるはずの対へ向かう。
そして、その部屋の妻戸の隙から明かりがこぼれているのを見たとき
昌浩は全身から汗が噴出すような想いに駆られた。



いつも何気なく接していた。
しかしこの3ヶ月、会うことも、声を聞くことも叶わなかった彼女。
今ほど緊張し、そして飛び込んで行きたいと思うほどの衝動に駆られた事は無い。


(やばい、…き、緊張で声が、で、出ないかも…)


己の心臓の音を耳元で聞きながら、昌浩は階をのぼりほとほとと妻戸を遠慮がちに叩いた。
妻戸の奥でふと息を飲む気配がし、しばらく置いてさやかな衣擦れの音がした。
その音に、いやおう無く昌浩の緊張が高まる。そして同時に体の奥底に火の様なものが灯ったのを感じた。

(まずい)

段取り良く、きちんとできるのだろうか。
色々見違えたりしないだろうか。
そんな事が頭の中を巡って、昌浩の足が震えた。

かたん、と妻戸が押し開かれる。
同時に、ゆったりとした風が空に漂っていた桜の花びらをあつめて、現れた彰子の周りに一斉に舞い踊った。
月明かり
桜の花びらに照らされて、はにかむように伏せられた彰子の目元が美しい陰影を作って
昌浩はすべてをそこにひきつけられて、声を失った。



「お待ち、しておりました」

いつもとは違うか細い声に、昌浩はどきりと心の臓を揺らす。
伏せられた目元も、月明かりにもほのかに朱を帯びているのがわかった。
ぐ、と息を飲むと、背を正し、昌浩は妻戸をかいくぐる。
決してきらびやかではないが、やわらかい色でまとめられている室内を目に留めて
昌浩は息を吐きながら円座に座した。
それを待っていたかのように、さらさらと衣擦れの音がして、前に座った彰子が両手をついて礼を取った。

昌浩はどくどくと血の流れる音を聞きながら、次の段取りを何度も頭の中で繰り返している。

ここで彰子が、何か言葉を言って
それに俺は歌か、言葉で返して
それから天一が来て、蔀戸と妻戸の鍵を閉めて、そ、それから…

蜀台の明かりが揺れて、彰子を照らし出す。

手をついて俯いてしまった彰子の指先が、白い包帯に覆われているのに気付いた。
昌浩は僅かに緊張を解いて、その指先に見入る。
そして、その先がかたかたと震えていたのに気がついたのだ。

彰子、と声をかけそうになって、昌浩は息をとめた。
僅かに顔を上げた彰子の顔は、紅潮し、そして大きな目は涙に縁取られている。
今にもこぼれそうなそれが、蜀台の光を映してできらと輝いた。


「…っ」

気付くと、思い切り抱きしめていた。
思うよりも、もっとほっそりした背を掻き抱く。
手に触れている髪はしっとりとして、さらさらと指の間を心地よく流れる。
それ以上に、肩口に感じる彰子の体温が愛おしくて、昌浩は言葉も忘れてさらに腕に力をこめた。


ふ、と明かりが消える。

室内の明かりは月明かりになる。

昌浩は腕の中に彰子を閉じ込めたまま、少しだけ体をずらして顔を覗き込んだ。


「何も、できないの…よ。お裁縫も、お料理も。…それでも、昌浩はいいの?」

すでにほろほろと涙をこぼす彰子は、むりやりに笑いながらそう言いつのる。
その言葉に昌浩はかぶりを振って、やや腕の力を抜いた。

「彰子は、彰子だから。それでいい。…彰子が、いいんだ」

向かい合って、か細い肩を支えるようにして顔を向ければ
部屋に僅かに射す月明かりに彰子の頬が優しくひかりを弾いた。
吸い寄せられるように、昌浩は彰子に顔を寄せる。
何事か、昌浩の唇が動き言葉を送り出すと
彰子は目を見開いて、やがて花がほころぶように笑った。



初めて触れた唇も、その細いかいなも。
すべてが愛しく、か細く、まるで壊してしまいそうだった。
それでも伝わる熱と吐息の熱さに、昌浩は夢に酔っているようにただひたすらにそれを求めた。


******************


あっという間に東の空が白んだ。
有明の月が、過ぎる逢瀬を惜しむように空に薄く瞬いている。

褥から体を起こせば、体の奥に走った痛みに彰子は、は、と小さく息をはいて目を閉じた。
それでも体中に残る愛しい人の熱が彰子を自然と笑顔にした。
傍らでまだ眠る人は、初めて出会った時とは比べ物にならないほど大人びて見える。

自分もそう思ってもらえれば良いのに…。
少しだけそう想いながら、彰子は乱れた髪を手櫛ですかす。
今日は、彼を起こす事がもったいないような気がした。
だけど、早く起こさなければ…。

彰子は沸き起こる気恥ずかしさをこらえながらいつものように声をかけた。

「昌浩…起きて?」
「んん…あき、こ…」

寝ぼけながら呟いた昌浩の言葉に、彰子は全身がまるで火がついたかのように熱くなるのを感じた。
胸が激しく脈打って、思わず胸元の布をぎゅ、と握る。

「あ、…おはよ。彰子」

いつものように無邪気に笑う昌浩に、彰子も笑い返した。
…上手く笑えただろうか。
昌浩は二、三回瞬きをすると少し慌てた様子で飛び起きて居住まいを正した。
東の空の明るさに、星が隠れようとしている。
早く帰らなければならないのを思い出してか、昌浩は慌てて身支度を始めた。

彰子もうちぎに袖を通すと、昌浩の身支度を手伝った。
昌浩の髪を結いあげ、直衣を調えていく。
いつもしていた事がこんなにも心震わせる事だとは。

身支度も整うと、昌浩は無言で妻戸に手をかけた。
彰子はすわり、手をついて彼を見送る。

「あ」
何かを思い出したかのように、昌浩は勢い良くくるりと彰子に向き直り
昌浩は下帯をほどいて、衣を一枚脱ぐと彰子の前にそっと置いた。
僅かに頬が染まっているように見える。

「そ、その。これ…」

昌浩の香りの移ったそれを指でそっと触れると涙が溢れそうになって
彰子は慌ててそれをこらえた。

彰子も礼にならい同じように自らの衣を一枚、昌浩に手渡す。
心を、想いをこめた真っ白な衣はお互いの気持ちをどこまで伝えてくれるのだろうか。

「あの、さ。」
「え?」
「…今夜は、もう少しはやく来るよ」

昌浩は妻戸に顔を向けたまま早口にそういうと彰子の返答を待たずに
そっと妻戸から出て行った。

「いってらっしゃいませ」

彰子は熱くなる頬を感じながら、昌浩をそっと見送った。




空はまだ明け切らない。
だが早く邸に戻らねば。
昌浩は、わけも無くはやる心に惑わされながらも、ガタガタと揺れる車乃輔の揺れに耳を傾けていた。

そうでもしないと叫びだしそうだった。
微かに体に残る、彰子の香りに体中が痛いほどだった。

本当は今すぐ取って返して、彰子を抱きしめたかった。
だが世の習いというモノがあるのだ。
帰って早く歌を送らなければいけなかった。

車乃輔にガタガタと揺られながら、昌浩は自然に浮かんだ歌を袂から出した紙に書きつけた。
がたがた揺れる中で書いた文字といつもの文字があまり代わり映えしない気がするのが悲しいところだ。
だが、こんなにも歌が湧き出てくるのは初めてで、これも成親兄上の特訓の賜物だよなとそっと感謝する。

「おう、文使いなら俺がするぞ」
「えっ!?」

ぼんやりと想いふけっていたところにかかった声に、素っ頓狂な反応をしてしまった。
声に顔を挙げ、車乃輔の小窓からするりと身を滑り込ませた白い物の怪に驚きながら
昌浩は手にした文と物の怪を見比べる。

「え?もっくんが、これを?」
「おう。ほれ、これ使え」

ぼう、とする昌浩の前に物の怪は桜の小枝をそっと置いた。

「ちょっとくらい気取っても良いだろ?」
「…もっくん」
「後朝の文は早さが勝負。お前がいくら歌をひねっても変わらんのだから俺がひとっ走り行ってやるよ」
「む」

すこし棘のある言い方に、昌浩は眉を寄せたがその言葉に甘えて桜の枝に文を結びつけた。
それを咥え、物の怪は小窓にひょいと飛び上がる。

「昌浩」
「え?」

余韻にいささかぼうっとしているいとし子に、物の怪はにい、と笑う。

「よかったな。おめでとさん」

それだけ言うと、物の怪は窓から飛び降りていった。


月がまだ白い。

肌寒さを感じて彰子はうちぎをひき寄せた。
いつのまにか顕現した天一が、笑いながら彰子に近づき礼をとると
両手に掲げ持つようにして、桜の枝に結び付けられた文を彰子に渡した。

「え?」

彼が出て行ったのは先程ではなかったか。
目をしばたたかせながら、それを受け取る彰子に天一は笑いながらそっと言った。

「昌浩様ほど彰子姫を御想いになられる殿方はいらっしゃいませんね」
「て、天一…」

天一の言葉にかあ、と頬が熱くなるのを自覚して彰子は袖で思わず顔を覆った。
歌が早い、と言うのは結婚する女性にとっては一大事なのである。
早ければ早いほど、その想いは深い。
くすくすと笑う天一に 笑わないで、と小さく、真っ赤に頬を染めつつ抗議してから彰子は文をかさりと紐解いた。

「昌浩…」

歌を書きつけた文を胸にそっと抱きながら、彰子は火照る頬のまま空を見上げた。
有明の月が、名残を惜しんでまだ彰子の上で輝いている。
夜明けの薄明かりの中、はらはらと風に舞う桜の花びらがとてつもなく美しかった。



色もなき心をひとにそめしより 月の色にぞきみを染めし夜









***歌のダメダメさには目をつぶってやってください;お付き合いありがとうございました!
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